2015年1月8日木曜日

白村江の戦い

さて、大宰府は何故現在の場所になったのか?ということについて、今回は白村江の戦いをご紹介します。

6世紀から7世紀の朝鮮では、百済、新羅、高句麗が存在していました。朝鮮内での覇権争いは、この三国に加え、中国・唐も含めた争いとなり、660年には、百済が唐(新羅も従軍)によって滅亡します。

当時、倭国は百済と友好関係にありました。660年、百済が唐に滅ぼされると、すぐに百済再興の戦いが起きます。倭国には、百済王の太子「豊璋王」がおり、これを擁立し再興を目指しました。

援軍要請に応じた倭国は、4万以上(文献に記載がある兵力)の軍を派遣したとされていますが、唐・新羅の圧倒的な兵力の前にはなす術なく大敗することになります。
これが663年白村江(ハクスキエ・ハクソンコウ)の戦いです。
× 倭国・百済連合軍 VS  〇 唐・新羅連合軍

この敗戦は、倭国における国家体制を大きく変えることとなりました。唐からの侵略に備え、九州統括の役所は現在の太宰府市(内陸)へと移動します。
これが現在の場所に大宰府が存在する理由となるのです。内陸側に移動した九州の都、そしてそれを守護するために水城や古代山城が築かれました。見張り番としての防人もこれによって配置されることとなります。
因みに、この頃、倭国は国号を日本に定めます(701年大宝律令)!!日本誕生。

この敗戦が招いた危機は、本当に大きかったようです。それは、大宰府を内陸に移動させただけではなく、都そのものを難波から近江へと移したことからも想像できます。最終的に唐の弱体化にも助けられこの防衛体制は杞憂に終わりますが、大宰府に与えた影響は本当に大きいと言えます。
これがなかったら、、、、、博多は太宰府かもしれませんね。

                                           総務部 日下部