2015年2月13日金曜日

大宰府の衰退


白村江の戦いによる敗北が、大宰府を今日の場所に移動させる大きな要因となったことは先のブログで書かせて頂きました。では、何故、そのままの繁栄を持続できなかったのでしょうか?
内陸にあることの意味は、中国からの侵略に備えてのものでした。そうした中、907年には唐が滅亡します。次いで中国を支配した「宋」とは友好な国交があり、侵略の脅威は次第に薄れていったと考えられています。防衛の水城も、防人もその意味が無くなっていきます。
貿易の外交拠点は、海側(博多)にあった為、都市機能もやがて港に戻っていくことになりました。
喉元すぎれば、今は昔・・・。
そうした中、決定的に大宰府を衰退させる出来事が起こります。941年「藤原純友の大宰府襲撃」です。関東で起きた平将門の乱と関西で起きた藤原純友の乱を総称して承平・天慶の乱と言います。平将門は有名ですが、藤原純友はあまり知られていないかもしれませんね。当時、瀬戸内海を荒らしていた海賊の討伐を朝廷より命じられた藤原純友は、この討伐に乗じて反乱を起こします。太宰府には軍隊も配備されていましたが、、、敵わず敗退。これは、既に大宰府の軍事的衰退が進んでいたことを表しています。この乱により、大宰府政庁は焼き討ちされてしまいます。政庁はその後再建されますが、この焼き討ちによる打撃は大きかったと思われます。


次回、大宰府の終焉です。

                                      総務部文化推進課 日下部