2015年3月17日火曜日

大宰府の終焉

12世紀になると、大宰府は荒廃していたことが予想されます。平清盛が大宰大弐になると、日宋貿易の拠点として博多が栄えることになり、政治的中心は海側へ移動しました。
元寇後には、九州統括拠点として「鎮西探題」が設置され、行政、訴訟、軍事を管轄します。ここに大宰府の統治機能は全て終焉をむかえ、海に広がる「博多文化」が花開きます。
どの都も、時代の流れとともに繁栄し荒廃します。奈良・平城京も京・平安京も時代の流れとともに首都機能を失いました。京に関しては、長い時代「帝」がおられた場所ですので、御所や寺社仏閣が多く残っています。それに比べると太宰府は、鎌倉時代から今日に及ぶ長い時の中で失われたものが多くあることが残念でなりません。
大宰府政庁跡地はその大部分が保存され、今日に至っています。復元が可能であれば、その雄姿を見てみたいと思うのは、私だけでしょうか?
ざっくりでしたが、太宰府の歴史を振り返ってみました。しかし、歴史的なものはこれに限ったものではありません。

次回より、太宰府の名所をご案内します。写真も取り入れご紹介していきますので、よろしくお願いします。

                                      文化推進課 日下部