2015年1月17日土曜日

左遷の地・大宰府

太宰府が左遷の地なんてとんでもない!!と思われる方もいらっしゃるかもしれません。しかし、当時の「大宰府」は、都からはほど遠い西国であったはずです。望んで大宰府に赴任する貴族もいなかったことでしょう。
さて、大宰府で最高権力者は「帥・ソチ」と言います。官職で従三位・中納言という高い役職です。
大伴旅人のように実際に赴任後、大納言として都に戻った人もいますが、平安時代中期以降は、親王が任命され、赴任しない役職と形を変えます。長官職が高位ということから大宰府がいかに重要な場所であったかが分かります。しかし、同時に地理的要因(中央から離れている)から、中央での勢力争いに負けた人の左遷の地としても利用されるようになりました。
その中で、最も有名な方といえば菅原道真公ではないかと思います。道真公は、その才覚から天皇に見いだされ、右大臣にまで昇進されました。当時、朝廷の実権は藤原氏が握っており、その対抗馬となっていたのです。最終的に藤原時平により大宰府へと左遷されます。
道真公は、失意のもと大宰府に下り、約2年後に没したと言われています。

東風吹かば匂ひおこせよ梅の花主なしとて春を忘るな

道真公が詠んだ有名な歌ですね。
因みに、道真公を埋葬した場所が、現在の「太宰府天満宮」であると言われています。

次回、大宰府の衰退について

                                  総務部文化推進課 日下部

2015年1月16日金曜日

大宰府の繁栄

「大宰府」は、唐の都・長安をモデルに都市計画がなされました。奈良・平城京、京・平安京と同じような巨大都市と役所が存在していたのですから、いかに重要な場所であったかが予想できます。
中央のメイン通り「朱雀大路」を中心に京都で見るような碁盤の目状の道路が東西南北に均等に走っていました(東西2.6キロ、南北2.3キロ)。
役所には、最高権限者の長官(帥・ソチ)以下、官人、従僕が600人ほどが勤務をし、大宰府政庁周辺では約2,000人以上の人々が居住していたとされます。白村江の戦いにより内陸に移動した大宰府でしたが、西国最大の都市として繁栄を極めました。万葉集に歌われる「遠の朝廷」は、この繁栄期の大宰府のことを歌っています。
現在は、大宰府政庁跡でしかその歴史を感じることができません。平城京、平安京に次ぐ規模の都市であったわけですから、京都のように都市権限を長く維持できていたならば西国の随一の御所が現代にも残っていたかもしれませんね。

私、このブログで、「もし〜ならば」と書き込むことが多いですね。「もし〜ならば」という仮定の話は、歴史には存在しないことです。だからこそ、逆にこうなっていればと創造することも歴史を知る上での醍醐味といえます。

次回は、菅原道真公の大宰府左遷です。

                                総務部文化推進課 日下部

※大宰府の勤務人数、政庁周辺の住民数は下記を参照しております。
  ・太宰府紀行      海鳥社
  ・万葉歌碑見て歩き  海鳥社

2015年1月14日水曜日

ちょっと一息・初詣

皆様、初詣には行かれましたか?太宰府といえば、菅原道真公をお祀りしている太宰府天満宮がございます。初詣で参拝される数は、なんと200万人。すごいですね。
太宰府天満宮は、菅原道真公に因み、学問の神様として周知されています。
初詣は「太宰府天満宮」に行く、という方も多いかもしれません・・・。
ご祭神である「菅原道真公」の「東風吹かば 匂ひをこせよ 梅の花 主なしとて 春な忘れそ」は有名な和歌ですね。

現在、このブログでは大宰府の歴史について書き込みを進めています。なぜ、大宰府が現在の場所になったのか?というところまで進んでおりますので、次回は、大宰府における繁栄と衰退についての書き込みを行う予定です。
とてもつたないブログですが、歴史好きの集まるブログにできたらと考えています。今後とも、お付合いをお願いします。




太宰府天満宮

                                           総務部 日下部                                        

2015年1月8日木曜日

白村江の戦い

さて、大宰府は何故現在の場所になったのか?ということについて、今回は白村江の戦いをご紹介します。

6世紀から7世紀の朝鮮では、百済、新羅、高句麗が存在していました。朝鮮内での覇権争いは、この三国に加え、中国・唐も含めた争いとなり、660年には、百済が唐(新羅も従軍)によって滅亡します。

当時、倭国は百済と友好関係にありました。660年、百済が唐に滅ぼされると、すぐに百済再興の戦いが起きます。倭国には、百済王の太子「豊璋王」がおり、これを擁立し再興を目指しました。

援軍要請に応じた倭国は、4万以上(文献に記載がある兵力)の軍を派遣したとされていますが、唐・新羅の圧倒的な兵力の前にはなす術なく大敗することになります。
これが663年白村江(ハクスキエ・ハクソンコウ)の戦いです。
× 倭国・百済連合軍 VS  〇 唐・新羅連合軍

この敗戦は、倭国における国家体制を大きく変えることとなりました。唐からの侵略に備え、九州統括の役所は現在の太宰府市(内陸)へと移動します。
これが現在の場所に大宰府が存在する理由となるのです。内陸側に移動した九州の都、そしてそれを守護するために水城や古代山城が築かれました。見張り番としての防人もこれによって配置されることとなります。
因みに、この頃、倭国は国号を日本に定めます(701年大宝律令)!!日本誕生。

この敗戦が招いた危機は、本当に大きかったようです。それは、大宰府を内陸に移動させただけではなく、都そのものを難波から近江へと移したことからも想像できます。最終的に唐の弱体化にも助けられこの防衛体制は杞憂に終わりますが、大宰府に与えた影響は本当に大きいと言えます。
これがなかったら、、、、、博多は太宰府かもしれませんね。

                                           総務部 日下部